言葉にすれば嘘になる
「本当の自分を見つめることの難しさ」と「言葉にすることで逆に本質がぼやける感覚」
「自分自身を創作している」「言い訳を作り出している」「作品と自分の関係に説得力がないと揺らぐ」といった部分から、言葉にすることで逆に“本当”から遠ざかってしまうジレンマ
言葉にすればするほど、どこか嘘っぽくなってしまう、
でも書かずにはいられない——そんな葛藤している
けれど無駄とも思えるこの思考に耽るときが、すきだ
思えば正直な自分の姿もコトバも、自分自身が理解できないまま、ひた隠しにして見ようとせず、妥協のようにずるく、自分がラクに流れるように、選択することが出来たのだと、対処してきたわけだけど。
コレは果たして正しい生き方なのか。
これが向き合えずにただ世を恨み泣いて愚痴のひとつでも言葉にできるほどの、器量があれば、また、この苦しさから逃れることが出来たのかもしれないな。
まあどちらにせよ
こんなものだ、人生など、こんなものでしかない
もっと見てほしいわかってほしい。なんて簡単にコトバにできて、
そのときだけでもうれしがったり喜んだり、信じたりして癒えるような
流されやすい人物なら、もっとラクに瞬間を楽しめたのだろうか
なにもしんじられない、自身もわからない。
掻き出される言葉を紐解いては、私自身を計るばかりだ。
その秤は正しいかどうかも知らない。
どこか線引し言い聞かせるため、自分を定めるための、
言い訳を勝手に作り出している、自分自身を創作している
だからずっと、後ろで操っている気分なんだ。
自分自身を。嘘くさい、ばかばかしい、自分に酔っている。
すこしズレた私が後方から、私自身を見ては、選択している、ゲームだよね
人生はゲームでしかない
確かに創作物としての品質は確実に(読ませるという気持でもって)書いていた頃のほうがだんぜん良かったね。思いつくままに自由に物を書いていたときのほうが純粋に楽しかったが、創作物として展示されるだけで。
自分と作品の関係、なぜ作品とするのか。
説得力がないなと、弱いなと、
それではすぐに揺らいでしまうよね、と気づいたので。
ざっと書いて反応を得る、けど、もう他人からの賛辞では満たされないんだよね。私が私自身の作品を一生眺め見て、永遠解き明かせないぐらいの魅力を掻き出さないと、私自身が楽しめて私自身が救われるこのサイクルを作り上げた方が、自分に酔えるわけだよね。自分以外の感情に振り回されなくてすむ。
最近はあれよね余計なもの見てるなと。嫌な気持ちになるようなもの無駄に考えてしまうことばかりな気がする。それでも自分に照らし合わせてかんがえたとき、自分がすこしずつ輪郭を帯び表情が変わっていく、
多分そういうかんじあるから、好きなものだけ食べていても、飽きるんだよなやっぱり
まぁねー、上手くなりたいわけじゃないから、わざわざ学ぶ必要はないんです。
ただね、私が面白いなと思うものを書きたいので、常に面白いとか気になるとか、直感をそのまま喰らって自分の形や思考の身にしたいかなと
みながしるような詩の呼吸は出来ないので。わたしはわたしのこきゅうでありつづけるだけ。
人間やめてるみたいなもので充分です
結局自分の中で確立できればそれで問題はなくて。でも説明するためにわかりやすくするために万人が知るようなタグや括りが必要で、それを確立したところで、結局そのタグや括りをどうみているかは、それぞれ違い、いっても通じないことがわかったのでもういい
しばらくはまた理屈じゃないとこに行きたい。
かんかくだけをたよりにうろうろしたいな。
それを裏付けることはまたきっといい出会いの中で
ふとした言葉のなかに潜んでは確立されることだから
2025/01/30
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