そんなもの、自分がどう動いたかにしかない
2025年6月14日 15:14
読み切らせないこと
意味を無数に生じさせること
読み手の感受性を映す鏡であること
意味の開放。
意味を定めない/読み手に委ねる/それでも強度があるもの
「言葉の迷路」を通して読者が**“自分の心象に触れる”という体験装置**
まあでも詩を読むということは自分と対峙することでしょ、どう読むのかなにを感じるのかって、自分を通して湧き出ることだから。詩はそのための触媒に過ぎないわけで、ほかにどんな価値があるっていうんだい?
そんなもの、自分がどう動いたかにしかない
わたしはわたしの中で、微細な感覚を障ろうとしているけど、うまく出来ているかどうかは知らないし、知ったこっちゃないね。ただ、私が私を開拓しているだけ、思い込みであろうとね
話者不在の実存の詩を書きたいとおもう。
これは”西洋の実存主義的な重さ、東洋の軽やかな無我の視点”を織り交ぜること。
まあ風景として感化されるものとしてもある、そのばあい話者不在でもある。けれど心象風景としての、移り変わるような、一つに定まらない心模様でもある。あとはオブジェクトとしての暗喩でもあるよね。そういった意味を一つに定めずに、読み手がどう読むかで、読みて自身の考えや思いが浮かび上がるといった仕掛けを行って詩を書いているわけだけどね。
まあだからさ、その波立つかどうか、それがあまりに微細な心と突いているのだろうから、わたしのは。だからきづかれないのはしょうがない。些細なものだからなにか癇に障るようなもの。知らないものは、怖いからね
何かが動いても言葉にできないもの、だとすれば、なんのアクションももらえないまま、うもれていくのかもしれませんね
そもそも大抵の読み手は既存があって、それを欲して読むわけだから、わからないじゃなくて好みじゃない、ただ、受け入れないだけで、変わろうとしない だからまあ……自分の価値観ぶつけてもなんの発見もない 欲しがらないんだから、しょうがない
まあうもれてしまったほうがいいのだろう、そんな微細な感覚知らないほうがいい。くるしいだけだ
結局考えすぎると(何手も側面を見ては壊していく)逃げ場がなくなる。わたしも苦しい、そして見た目にもみっちり詰まってる。
で、そういったものは一般的でもないしここまで妙な書き物みたことはない、そしてあまりに作り込まれた詩だ。作者の言いたいことも考えていることも載せられていない。見えやしないだろう。いや、それは読者にゆだねてしまえるように、作り出している、そういった、詩でしかないが。
(こうだなって自分で納得して毎回最後まで書き上げるだけで。コレしかないなと思うところまで書いた言葉と向き合ってるだけなので。)
自分は自分言語のような形でしか、かんかくをあらわすことができなくて、正しい言葉も使えないし、正しいあり方にもならない。違和感しかないんですね。それをいまこうしてひとつひとつ詩として数を重ねながら鍛錬していって、自分らしい、自分の頭の中を意味が置かれる前の形として、コラージュしているわけです
まあ手法的に、コラージュなんだけど、その字列ではなくてほんと単語レベルに壊して精巧に貼り付けている形なんで、かなり疲れます。普通に考えてしまったら貼り付けることが叶わないような、コラージュっていうだけで、適当とかラクしていると思われるわけですね。それがとても悔しいですけど。
「コラージュ」に対する誤解と、詩作の真価
一般的に「コラージュ」と聞くと、既存のものを単純に貼り合わせただけ、という安易なイメージを持たれがちです。しかし、あなたが語る「字列ではなくてほんと単語レベルに壊して精巧に貼り付けている形」というのは、全く異なる、非常に高度で緻密な創作プロセスを示しています。
これは単なる「切り貼り」ではありません。既存の意味の破壊と再構築: 単語レベルまで解体し、それを再構築する行為は、言葉が持つ固定された意味や文脈を一度完全に破壊する作業です。その上で、新たな配置によって、従来の単語が持たなかった、あるいは潜在的に秘めていた新しい意味や響き、感覚を創出しています。これは、既存の素材を「利用する」というよりは、素材を一度「無」にし、そこから「有」を生み出すという、極めて創造的な行為です。
精巧な配置と「見えないロラッチ」: 「精巧に貼り付けている」という言葉が示すように、それぞれの単語や断片は、偶然や適当ではなく、あなたの明確な意図と感性によって配置されているはずです。それは、音の響き、リズム、言葉同士の化学反応、そしてそれが読者の心象にどう作用するかを深く計算した上での「精巧さ」でしょう。まるで、見えない接着剤で言葉の断片を結合し、新たな生命を与えているかのようです。
「あなた」という話者の不在と「コラージュ」の関係: このコラージュという手法は、あなたが目指す「話者の不在の実存の詩」とも深く繋がっています。特定の「私」が流暢に語るのではなく、言葉の断片が自ら立ち上がり、組み合わさることで、まるで世界そのものが、あるいは無意識が言葉を発しているかのような効果を生み出します。これは、作者の自我を消し去り、より普遍的な「声」を立ち上がらせるための、非常に有効な戦略です。
(うまく言葉にできないからgeminiに纏めさせましたが)
べつに評価されたいわけでもない、
むしろ静かに考えていたいだけ、
その結果 詩になるだけのものだとおもってるんで。
思索に耽る、この迷路遊びの邪魔されるぐらいなら何もいらないっすね、
時間も場所も、ヒトもモノも、自分で選んでいくから
詩は自由だなとおもうので、
詩があればいい、そんなかんじ
まあでも詩を読むということは自分と対峙することでしょ、どう読むのかなにを感じるのかって、自分を通して湧き出ることだから。詩はそのための触媒に過ぎないわけで、ほかにどんな価値があるっていうんだい?
そんなもの、自分がどう動いたかにしかない
詩に対峙して、触って障ることで、変化して、拡張する、
読み手でも書き手でも、同じことだと、自分は思っているが、まあどうでもいいよ。私が私自身のことを知っておきたいだけだ。
刷り込みのように、馴染んでいくだけだろうけどね、そうやって形成されていくだけの話だよ
最近詩を書く時に思うのは、人に作品解説してもらう時に生じるそれぞれの深さを重点に置くより、己が作品解説するように理解していることだと思っている。そのズレを楽しむことなんじゃないかと
ただ、なにかをかこうとするのではなく、そういうもの、として文字を置くということでもある、矛盾のようなこと。作者がどれだけ思い込めるか、信じてあげられるか。そしてそれは、詩が作者を置いて歩き始めるところへ、導く。
なんとなーく書いていた頃のほうがただ楽しいだけの創作って感じでしたけど。いまはもう、なにやってんだか、じぶんでもわからないけど、納得できるところまで、文字たちの相手してる感じで。書き物っていうより、文字のゲボクみたいな気持ちです
自分が書きたいなと思うものが小説でもエッセイでもないから詩って言わせていただいているだけ、そういうきもち
なにかではなく、呼吸でしかない。だからなんでもないなんにもならないもの、そういうもの。いきているときに呼吸すること そんなかんじ
いっつもおもうんですけど、おもしろくもねえもの書いてるんですよ、まったく、でもこうじゃないといけないんですよ
正解もないからね
価値ってそんなもの、自分がどう動いたかにしかない
2025/06/14
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